ミサワブラック!!

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オウムに関してはテロ組織としての部分と、宗教団体としての部分を分けないと話がおかしくなる

知り合いとオウム事件で話すことがあったからちょっと記事にするんだけど…僕に言わせてもらうと…

・宗教としてのオウム
・テロ組織としてのオウム
は分けないと色々おかしなことになるんだよね。

 

…というのもですね、よく「オウム信者はマインドコントロールを受けて洗脳された人達だ」みたいに言う人がいるんだけど…アレって何割か正しいけど、それで片付けられるとかなり雑なんだよ。

 

また、マインドコントロールの手法も、宗教が成立してすぐの時期の「ヨガなどの瞑想によってなされる部分「と、地下鉄サリン事件前後の薬物や暴力による部分とがぞんざいするわけ。

 

なんでこんな話をするかと言うと…宗教としてのオウムが抜け落ちるとこういう話になってしまうからだ。

 

似たようなこと言ってるツイートも多くて、これなんかもそう。

 

これって、地下鉄サリン事件前後の本気でヤバイ時のオウムなら当てはまることなんだけど…同時に、この説明だと最初からカルトだったみたいになっちゃうんだよね。

 

これだとすごく違和感がある。

これ、オウムに限ったことじゃないんだけど、歴史の話する時には良かった時と悪かった時のことを混同することで誤った教訓が残ってしまうことがある。

 

 

そもそも、実際問題として暴力的な部分だけで(方向性として悪だとしても人々から崇拝されるような)カリスマ的な指導者が誕生するだろうか?

 

そういう事を考えて欲しい気持ちがすごくある。

少なくとも初期段階のオウムは宗教として洗練されてた

 

宗教としての完成度を見る時には、3つの視点がある。

  1. 宗教を通じてできあがるコミュニティに属していることが楽しいかどうか。
  2. その宗教を通じて、自分が明るくなるような体験ができるかどうか。
  3. 神学的な論争に耐えられるようなキチッとした教義や論争に耐えられるような創作物を作れるかどうか?

この中の1つ…できれば2つあると、ハマりやすい宗教になる。

 

1は…大乗のストイックでない宗教ならいちばん重要なところ。
宗教を通じて日常のルーティーンができたり、友達や居場所ができること。
どんな趣味でもそうなんだけど、一緒に続けていく仲間とか日課ができることが楽しい。これは宗教でも同じこと。
オウムはこの要素は少ない。特に末期には信者同士の世間話も禁止しているため、日曜日に教会に行くタイプの人とかとは完全に宗教として毛並みが違うものになってる。

 

2は…「修行や教義を勉強することで明るくなったり神秘的な体験ができるかどうか」というところだけど…これは教えを勉強することを通じて成し遂げられてもいいし、修行や集団生活を通じてでもいいから、とにかく自分の中で変化したと感じるなにかがあること。

オウムの場合はこの「体験」の部分を重視していて、オウムにハマった人の多くは実際にヨガ体験や麻原彰晃の著書に大きな衝撃を受けた人が多い。

 

3は…宗教としての作り込み。
例えば、キリスト教に詳しい人だったら膨大な聖書を生き字引のように引用できるだけでなく、宗派による聖書の訳し方の違いまでキチッと理解している。


カトリック、プロテスタント…エホバの証人などその他のキリスト教から派生した宗教の違いは、大雑把に言うと聖書の解釈が違う。
聖書の解釈の違いから伝えている教えや決めている掟が異なる。

大半の人はヘブライ語なんて読めないから、原点に忠実な教えが何なのかなんてわかんないし、仮に同じものを読んだとしても、教えに忠実な立ちふるまいはその時代時代によって異なるから…キリスト教から派生している、原典が同じと言っても…捉え方が大きく異なる。

 

日本でカルト呼ばわりされつつも広がっている宗教の多くは…キリスト教または仏教をカリスマ的な教祖が再解釈したり、新しい軸で語っている宗教がちょいちょいある。

 

オウム真理教の場合は修行の方法や教義をチベット密教をベースにしながら、色々なものを付け加えている。
加えて、布教用のビデオの中にはアルマゲドンについての独自研究する様子のビデオがあるのだが…「日本語訳の仕方がおかしいから解釈を歪めてしまっている」といういかにも宗教論争らしい意見を述べているシーンが出てくる。

 

プロセスとか一般論としては「宗教に必要な要素」はちゃんと満たされているんだよ。
正しい・間違ってるはともかく、型やプロセスとしては「これは、宗教にハマる人がハマるであろう内容は満たしているよね」という条件はきっと揃えられている。

 

だから厄介なんだよ。
いかにもバカで、優れたところや人を魅了する要素がなんにもないものだったら誰も何も引っかからない。

 

でも、最低限宗教として成り立たせるために必要な要素を勉強や本人のセンスで補うことができているため…タチが悪いのよね。

 

ましてや、今ほどブラック企業や体育会系に敏感な時代ではなく、モーレツなバブル期に、馴染みのないヨガやチベット密教の流れを取り入れた宗教を作ってるわけだから…それは、今以上に目新しく見えただろうさ。

 

 

ブラック企業は「仕事だから」という割り切りしかないからイヤイヤなところは残るだろう。
しかし、ヨガを通じた瞑想体験やある程度強度の高い宗教論議からくる言葉を聞いて納得した上で「信者は女性と高学歴な若者が中心だよ」「君の才能を存分に発揮してくれ」なんて学歴があるインテリが誘われたら…それは、魅力的だよね。

 

もちろん、やってることは悪の組織なんだけど、なんで優秀な若者が集まったかというと…たまたま上司だった人たまたま人事だった人に「仕事だから、お金がもらえるから」の一点張りでこき使われるよりは魅力的だったことなわけ。

 

「高圧的なカルトだからダメだ」は入ってからのお話。
ブラック企業も宗教も「若い人がやりがいと責任を感じられるような職場です」みたいなワードを聞いた時に【お、この団体は調子のいいことを言って、若い人を馬車馬の如く働かせる会社だな】って気づかないといけない。

あるいは、オウムにしろ、ブラック企業にしろ閉鎖的な体質だから「OB・OG訪問を通じて生の声が聞き出しにくい職場」「勤めている人に会ってみたはいいが、どの人にも目の下に濃ゆいクマが出ている会社はだめ」と感じること。

本当に、必要なのはそっちだよ。

 

テロリストとしてのオウム真理教について

僕の中で疑問なのは、「オウムを宗教だからダメ」と思っている人が多すぎることや死刑について「人権だから許しましょう」という人達。

 

…いやいや、そういう問題じゃないでしょ。

 

宗教としてのオウムにハマった人と、テロリストとしてのオウムにハマった人

田舎の山奥にアジトを作ってみたり、大量殺人兵器を作ったり、薬物を作ったり、山奥で軍事訓練している時点で、そんなのは宗教団体ではなく、テロリストだよね?

 

ここでややこしいのは…
・事件前に広報やスポークスマンとして活躍した幹部信者
・松本智津夫が逮捕された後もオウム真理教に残ったような人や、
・実刑を受けた人の中でも殺人などの罪に問われなかった罪の軽い人
辺りは…基本的にテロリストとしてのオウムとは、別物。

具体的には上祐史浩とか、石井久子とか、村岡達子とか…(何もやってないとは言わないけど)犯罪の関わりが薄い人達は…テロリストとしてのオウムとはまた別個なのよね。

 

また、テロリストとしてのオウムに染まった人ってゴリゴリの理系信者だったり、松本智津夫よりも年上の中年の幹部信者だったりすることが多いから…そういう人材を後から揃えている側面が強い。

実際、オウムを武力路線に舵を切った人で信者として古参なのは早川紀代秀ぐらいなもんで…他は比較的遅めな人が多い。(だから、陰謀論好きな人の中には早川が本当の首謀者だと言う人もいる)

 

若くて、宗教を真面目にやる人と、テロ組織としての色々やってた人はある程度ダブっているとは言え、別個のものだから、そこを分けて考えないとややこしいことになる。

 

また、テロ組織として核になっていた幹部だった村井秀夫が殺害され、なおかつ麻原は自分の裁判では現実逃避した意味不明発言を繰り返すため、他の被告は「裁判で何も言えない村井と麻原が悪いという方に持っていこう」という発言が多くなってる。(マインドコントロールのせいも、事実でもあるだろうけど、やったのは自分じゃん…)

 

宗教の方の人達が問題がないという気はもちろんない。
ただ、テロや犯罪に主導・加担するような人達は特にクズ揃いだから、他の犯罪と一緒にして語るのは難しい。

 

 

だから、あの事件をテロだけで総括しても危ないし、宗教だから危ないという結論も危ない。

ましてや、一般的な死刑廃止論とセットにするのは完全なお門違いだろう。

 

死刑廃止論争をする前にすべき意識改革をしたら? 

まず…彼らはテロを働いた人達は政治犯なんだよね。
だって、国家や公権力に対してテロを働いて抵抗して、自分たちの組織を国のように運営しているわけだから…単なる殺人犯としてのスケール感を超えちゃってるのよね。

 

そして、テロリストである以上は、普通の人と同じように人権がどうだ、死刑を政治ショーみたいにするのはよくないとか言うのは…ちょっと違うよね?

 

「テロリストや政治犯のような【救いの手を述べたいとは到底思えないやつ】にまで、人として生まれた以上、平等な権利を保証するのが人権だろうが!!」

というのはごもっともだけど…そういう言い方をするなら、松本智津夫よりかは幾分マシな…「クズなだけで悪いことはしていない人」に対して人権を保証しようとする運動をやるところから始めたほうがいいのでは?…とすごく感じる。

 

若い女性が過労死しない限り、過労死しても話題にならないのが、日本って国じゃん?

 

それなのに、

「どんな死刑にも反対。それが国を滅ぼしたり、他人を誘拐して薬物を使って脅してたやつに対しても、人として生まれた以上人権はあるんだ」

なんて言うのは…オウムをダシに目立ちたい人か、いい事言ってる自分に酔いたい人間にしか見えない。

 

若い女以外の貧困とか過労死とかそういう問題も平等にもちゃんと注目・救済してきた人しか言う権利がないと思うけど…日本でその資格がある人って、おそらくは10%もいないよ?

 

それどころか、女子大生の貧困と聞けば、デマまたはほとんどデマに近い情報を流しているようなライター(中村淳彦)みたいな人が、ウケる有様。

「女性の貧困を扱うな」って言ってるんじゃなくて、ほとんど女性の貧困しか扱わない人…そういう形でしか貧困問題は同情的に読まれないという打算や貧困取材を口実に風俗の世界を覗き込みたいだけにしか見えないレベルの浅さで面白半分に突っついている人が貧困を語る記事を書くのはどうなの?…って心の底から思う。

 

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この国で「想像される貧困」って言うのは、幸薄い若い女が暗い過去を抱えながら風俗で働くという貧困ポルノ、かわいそうポルノだからね?

 

障害者の人が「障害者は感動ポルノとして健常者に消費される 」なんて言ってたことがあるけど、この国に於ける人権ってほんとそんなレベルだから。

 

日常がそうなのに、特別酷い…人を殺そうとしたり、他人の全財産を強奪して自分たちは謎の発明や愛人づくりに精を出してた連中の人権を守れ…という世論になるんですかねぇ??

 

死刑廃止論自体に否定的…ってわけじゃないんだけど、そこまで行く前に色んな問題を解決しないと難しいように思えてしょうがない。

 

刑務所に入りたくて犯罪をする人を減らしたり、
刑務所から出てもお金がないから再犯するような人を減らしたり、
世の中の人が感動ポルノ的でも、若い女の子と関わりを持ちたいでもなく、誰でも平等に愛することを覚えさせたり…。

 

そのぐらい変えないと死刑廃止論なんてなんの説得力もないように思えてしょうがない。

 

否定しているわけじゃなくて、「すごく大変なことなのに、頭ごなしに、雑にポジショントークみたいに言うのは違うのでは?」とすご~く思う。

 

 家族だっただけで学校に通えなかったり、死刑執行の日に「あなたには生きてる資格が無い」みたいなリプライが来るんですよ…。

死刑廃止どころか、この国は五人組とか一族郎党皆殺しみたいな時代からあんまり進歩してないと思うから、いい加減そこが進歩して欲しい。

 

 政治の決定として死刑廃止できたとしても、そこに世の中の人が追いつくかどうかがすごく疑問。
「罪を償う=どんな辛い目に遭わせてもいい」ぐらいに思ってる人をどうするやら…。